2002年5月2日
当時の下宿とセロー
「人生何とかなる!」船に乗れなかったらその時考える、折角近くまで来たんだし去年施工管理で出向していた大山某ダムに行ってみた。知っている職員の車が駐車場にあれば管理棟に寄ってみよ〜と思ったが所長の車があったのでさすがに止めといた。仕事はダム施設の管理業務で毎日ダム堤内と周辺施設の見回りと下流河川への放水量の調節とかもある。出向していた時期は12月から3月だったので雪との戦いでもあった。場所は大山の麓、豪雪地帯としても有名な所でダム管理棟からはコンビニに行くよりもスキー場に行く方が遥かに近いくらいだ。大晦日の晩の事、宿直室で紅白見ていたら放水異常のブザーが鳴りゲート室に行こうと防寒服を着て玄関に出ると「ありゃ!」雪で扉が開かない。此処は本当に日本なのか?窓から外に出てラッセルしながらゲート室にたどり着くと誤動作だった。が〜ん(当時はシステムが不安定で誤動作が多かった)くたびれ果てて宿直室に帰ると「行く年来る年」が終わっていた。それでも、どん兵衛に湯を注いで年越し蕎麦で新年を祝った。当時住んでいた下宿も凄かった。昭和時代のフォークなお部屋だった。「これが四畳半と言うやつか、神田川は四畳一間だよな。」と笑った。フォークソングの歌詞じゃないが、下宿のおばちゃん元気だろうか?是非寄りたい。その下宿は食堂を営んでいたりして、設定的にも泣けてくるのだ。例え、その食堂でカレーを頼んで、おばちゃんに「今日のカレーは止めといたほうが良いよ、・・・酸っぱいから」と言われてもだ。駐車場に置いてある夜にならないと電気の灯らない自動販売機も懐かしい。バイクを停めて食堂に入ると、おばちゃんがお経を唱えていた。熱心やなあとと思いつつも「おばちゃん元気じゃった!」と中に入るとおばちゃんは、しばらく考えていたが、どうやら思い出してくれたらしく「あれま、何年ぶりかしら」。食堂の雰囲気とかは変わっていなくて何だか当時を思い出す。2度目の就職を果たし会社員として普通の生活に逆戻りかと思っていた矢先の大山出向で「結局、流れ者の人生かな」と開き直っていた。ここでの生活は、やりたい放題で毎日毎日楽しくてしょうがなかった。3日に1回はスキーも行ったし、近所には何カ所か有名な温泉(皆生、湯原、関金、奥津とか)があり、毎日替わり交代に入りに行ってた。仕事はコンサル的な業務もあったが野山を駆け巡るような体力勝負的な業務もあり充実していた。が、一生こんな風に生きていく訳にはいかないだろう。大山出向を勤めた後、2度目の会社に辞表を提出した。【ツーレポは2002年です。現在は安定した仕事をしています。念のため】食堂でコーヒーを頼み、下宿のおばちゃんとしばらく世間話でもしていたが昼近くになり、昼飯を食いにきた客がぼちぼち現れ始めてきたので退散する事にした。
キップと酔止めの薬
タイトルにも書いたが今回は隠岐の島に渡るのだ(行って無ければ書いてないか)それで、ある程度の食料は確保しておこうと米子市街に入りこみ、100円ショップで買い出しをする。現地で何か調達出来るだろうから、1・2食分のレトルト物を買っておけば良いだろう。それと酔い止めの薬を買っておきたい!今日は風が強いので海が荒れていると思われる。「あ〜今日は揺れるな揺れるな揺れるだろうな〜」とヘルメットの中でブツブツ言いながらも走って行くと境港に着いた。フェリー乗り場のバイク待機所には俺の他に2台ほど隠岐に行ってしまうバイクあり「今日は、揺れるじゃろうね〜何処の島ですか?」と話かけると島後に渡るという。隠岐諸島は島後と島前に別れており、島後は隠岐諸島の中でも最も大きくそれ自体が島の名前になっているのに対して、島前は西ノ島・中ノ島・知夫里島の3島からなっている。何処に行くか悩んだが島前の西ノ島に行くことにした。何故か?それはあまり船に乗って居たく無いだけで、1番早く着ける島に決めただけなのだ。船に乗り込むと薬飲んで、座敷部屋で仰向けになって床にへばりついた。「さあ、どっからなりともかかって来んかい」・・・が、そんなに揺れんかった。
テントon砂浜
西ノ島に着き、とりあえずというかキャンプ場と名のある場所に行ってみるがシャバ代がなんと1000円! 800円とかだ。此処に張るのは勝ち負けで言ったら負けに違いない。まあ、そういう事もあろうかと西ノ島に海水浴場があるのはチェック済みなので、早速その外浜海水浴場に向かった。船引運河から海側に降りていくと海水浴場が見えた。砂浜の隅っこにテントが張ってあるじゃないですか、先住民が居るらしい。バイクを停めて辺りを調べると幸いにも水場も近くにあり、側を通る道路の交通量も少なそうなので、テン場の先住民に挨拶してテントを張ることにした。テント張って飯食ったので酒でも飲もうかと思い隣りのテントに酒宴のお誘いに行ったが、どうやらもう寝てるらしい。1人寂しくとも思ったが荷物に釣り竿があるのを思い出して、リュックに竿を放り込んで夜釣りに出掛ける事にした。近くの港を攻めてみたが小メバルとカサゴしか釣れない。隠岐まで来てコレなのか?釣果に不満は残るが、眠いので帰る事にした。テン場に帰って海を見てると漁り火が遠くでユラユラ揺れて、空には久々に見る満点の星!それ見ながら酒飲んでると幸せな気分になった。今日はコレで満足したんで寝る事にした。
2002年5月3日
引船運河
船引運河とは、西ノ島町の中央部の細くくびれたわずか三百米の幅の地点に開削された運河で、昔は船を陸上に引っ張り上げ外海に船を出したので「船引」という地名が着いたと観光案内に書いてあった。その船引運河を夜も明けやらぬうちに漁船の大群が外洋に出るために通っていくのだ。朝からポンポンポンと・・・「あ〜うるさくて寝てらりゃせん」と目を覚ます。朝早く起きても、たった三文の得にしかならわ!とか思ってると隣りのテントが片づけ始めた。「今日帰るんですよ、燃料と米貰ってくれます」。彼はバックパッカーで島を廻る為に荷物を軽くしたいと言ってきたので、そういう事なら喜んでと、米と燃料を引き受けた。バックパッカー君はバスの時間があるんで出ていき、砂浜は俺一人になってしまった。
ゼッケンの付いていない馬です。
とりあえず朝飯も食ったし砂浜にテント残してバイクで出掛ける事にする。国道から脇道みたいな所に入って国賀海岸に抜けて行くとなだらかな草原が続く、此処らは馬牛が放牧されていて、やたらと長い草千里を走っているような感じなのだ。のんびり走るには良い所だが、馬牛が放牧されていると言うことは当然道は糞だらけなので踏まない(ずっこけない)ように避けて走る必要がある。それに何故だか知らないが大量発生した熊蜂がホバーリングしていて刺されそうで怖い。上やら下やらと非常に危険な状態が続くがバイクを進ませて通天橋へと降りて行った。
通天橋
アーチ上の岩の架け橋『通天橋』は海にせり出した巨大な岩石の中央部が波による浸食作用による造形されたもの大自然の造形見せつけている。通天橋には便所と屋根付きの休憩所があり、そこで野営をしたと思われる旅人が居たんで話かけてみた「ここでテント張ったんですか?俺も此処でやれば良かったかなあ。」なんでも此処でテント張ると監視船が来て撤去を命じられるそうだ。確かにこんな景勝地で黄いテントでも張ってたら台無しではあると思う。まあこんな事もあるんで気をつけたいものだ。
あじを焼いてみました。
それから島内をブラブラ廻っていたが釣りがしたくなったのでフェリー港に戻り釣具屋でエサを購入する。そして忘れては成らないのが釣具屋でポイントを聞くことだろう。釣具屋を営んでいるというプライドもあるので大体は良い所を教えて貰えるハズだ、たまに俺様のポイントをよそ者に荒らされて成るものかという所もあるようだが、まあ普通は大丈夫だと思う。教えて貰った防波堤について海を見ると鯵が群れているのが判る。鯵は表層に居るみたいなのでウキ下を1ヒロでオモリは小さめの物でゆっくり落とす。魚は上から落ちてくる物に弱いのだ。水面が落ち着きやがてウキが海中に消えていくと軽く会わせをくれてやる。鯵も20センチ超えると良く引いてくれる。5匹釣ったところで雨が降りだしたので退却する事にした。途中で麦酒と何故かキャベツを購入してテントへ帰った。キャベツをかじりながら鯵を焼く、少し落とした醤油の匂いがこおばしい。それにしてもスーパーで無いからといって1玉もキャベツ買うんじゃなかった。キャベツで思いつく料理といえば野菜炒めとキャベツを具にしたコンソメスープぐらいだ。キャベツ料理と鯵の塩焼きで一杯やりながらGWの昼間が過ぎていった。酔いに任せてテントで寝ていたが夕方になって起き出し風呂に行く事を思いつくが、雨が降り続く。よせば良いのに合羽を羽織って国民宿舎の風呂に出掛けていった。綺麗好きという訳ではないが風呂に入れる状態であれば必ず入ってしまう。疲れをとるのはこれが一番!湯舟に浸かって日本人でよかった〜と思う一瞬。国民宿舎のロビーでマッタリしていたが暗くならないうちにと、また合羽を着込んで我が家へ帰った。晩飯は隠岐名物?「さざえカレー(レトルト)」手抜きして飯もパックライスを使用した。どんな味がするんかと思って食ってみると、さざえの味・・・がしない?そりゃそうだカレーだもんな〜。さざえの歯ごたえを噛みしめながら晩飯を食べ、そして再び酒を飲む。肴はキャベツ!まだ半分くらい残ってるがそろそろ飽きてきた。せめてマヨネーズを持っていれば。
2002年5月4日
ゆるい無人島生活ぽくて良かったです。
昨日と同じように漁船が出ていく音で朝早くから目が覚めた。島から出るために荷物をまとめなければならないが、昨日からの雨が降り続いていて片づけを始める気がしない。「もう少ししたら雨も止むかもしれない。」とか「小降りになったら外に出よう。」とか考えていると船の出る時間があと1時間に迫ってきた。気は進まないが仕方なくも合羽を着込みテントを片づけ始める。まあ今日も何処かでテントを広げる訳なのでと煩雑に荷物をバックに放り込んで行く。バイクに荷物を載せて出て行くと、砂浜には誰もいなくなった。
セローに荷物積んで・・・何もかも皆懐かしい。
フェリー港につき、世間様のシガラミでお土産を2・3個買って船に乗ると朝10時定刻通り船が港を出て行った。西ノ島を出た船は境港に行くまでに中ノ島・知夫里島と立ち寄るので所用時間3時間40分もある。いつもならこんなに時間があると一杯引っかけるのだが揺れたらヤダし、さすがに朝からというのは気が引けて大人しくしてる事にした。境港について雨が上がっていたら皆生温泉に寄って行こうと思ったが、雨はしぶとく降り続いていた。皆生温泉を素通りして国道9号に出て、鳥取砂丘を目指す。砂丘の何でも柳茶屋というキャンプ場に九州の知人達が来るという事になっているので行ってみる。雨天用のグローブを忘れて来たみたいで途中にホームセンターに入ってゴム軍手を購入した。ゴム軍手は何か癖はあるがかなりの防水を誇り、結構快適にバイクを運転出来る。GWだがこの雨のせいもあり、すれ違うバイクもなく淡々と車の流れにのりひたすら走って行く。キャンプ場についたらまた雨の中をテント張るのかと思うと少し気が重い、水場で寝袋だけで寝ようかと思ってると、羽合温泉を過ぎたあたりで日が差し始めるようになった。とりあえず砂丘についたのでツーリングマップル開いてキャンプ場を探すと来た道を少し戻って海の方に行けば良いみたいだ。もう少しみたいなので休憩を返上して再び走りだすと途中で砂丘温泉を発見!後で入りに来ることにしよう。キャンプ場に着くと、そこはあたかも難民キャンプを思わせる賑わいであった。昨日の砂浜キャンプ場とはエライ違いだと思いながら連中を探すと、バイクが停めてあったのでその周辺を探すとHさんがおった。Yさんと画伯は買い出しに出掛けているとの事。テントを建てながらHさんに今までの旅の行程を聞いていると二人が帰って来た。「画伯さんよくご無事で」画伯は広島県O市出身だが何故か九州の連中とツーリングに出ていた。今宵の宴会は賑やかになりそうだ。宴会の用意をしていると炭量と酒量が少々不安になり、「ついでに風呂に入ってくる。」と買出し係に名乗りをあげて、バイクに乗って鳥取市街へ出かけて行った。ホームセンターで炭3キロ、隣の酒安売り店でアルコール類を購入!「あっ」という間にお使いを済ませてしまった。何か面白くないな、風情が無い。昔はツーリング中の買出しといったら雑貨屋みたいな所に入り込み、まず賞味期限を確かめたくなるような古ぼけた袋に入ったレトルトや、明らかに現代のセンスと違った魚絵の缶詰を買い漁ってたと思うのだが時の移り変わりだろう。買出しも済ませたので風呂に行く。国民宿舎の受付で500円を払いタオル片手にスリッパをパタパタ響かせて風呂場に進む。国民宿舎の廊下というのは、決まって薄暗くて表現しにくい独特な匂いがする。この時間帯には珍しく客は自分1人!ゆっくり足を伸ばせて入れるってやつだ。風呂は日本海を面していて、黄昏時に漁火が海の向こうで揺れていた。砂丘に波が押し寄せてくる音が響く中、湯船の中で旅の疲れを癒すのだった。「イイじゃん。」今日はもう寝ようかなあと・・・そうは問屋が許さなかった。キャンプ場に戻ると九州の連中が宴会を始めるべく周辺のキャンパーに宴会参加を呼びかけていた。乾杯もせんうちから待ち切れずビールをやりだして一息つくと、皿と箸を持って近所のキャンパーが集まり小さな輪を作った。コレ位が人の話が聞こえる人数というやつか?10人位の集団なのだ。永遠に続く楽しい宴!焼酎がドクドクとコップに注がれる。眠すぎる〜眠たくなったので、こっそり輪を離れてテントに戻って寝る事にした。では、お休みなさい・・・とレム睡眠に入った所でテントが揺れた。地震?誰かがテントを揺らしているらしい。体を起こした瞬間、テントの丸窓からサッと手が伸びてきた。「たまげた!俺の寝込みを襲うとはいい度胸だ。表にでろ」って敵は外にいて俺は中にいるのだから逆か?「俺が外に出る。」と表に出ると画伯だった。まだ寝るのは早いそうだ。コップを持って再び宴に戻ると「おら注げ!」と焼酎が生でコップに溢れんばかりに注がれてしまった。物には限度がある事を教えてあげたい。しかし、少し寝たんで調子が良くなった。再び呑みだす。
2002年5月5日
「あ〜頭が痛い。呑み過ぎた。」もう少し寝てようかと再び目を閉じるとバイクの暖気音がするので表に出て見ると、「長野に帰るのでソロソロ此処を出る。」と昨夜の宴会メンバーの一人が去って行った。キャンプ場でまどろんでいると、1人1人と荷物をまとめて出かけて行く。そういう自分も今日広島に帰るつもりなのだ、連休明けに出張があるので準備をしておきたい。人生、守りに入ってるかな〜。九州の連中と画伯は、今日出雲まで戻ってキャンプを張るそうだ。「とりあえず広島目指します。また近いうちに!」鳥取市内で連中と別れて津山方面に向かう。用瀬から入って人形峠経由で蒜山を抜けて行く。距離的には遠回りになっていると思うが成るべく市街地に近づかないように山の中を抜けて行く。蒜山インター付近で交通渋滞?何かと思い、すり抜けて行くと道の駅に出入りする車が原因らしい。その道の駅には素晴らしい何かがあるに違いない・・・ってことは無いだろうな。再び日野市に戻り初日に通った道を逆走するコースになるが山越えをして三次に戻る。ここで考えた「今から出雲に戻ってキャンプに参加すれば、奴らの意表を突く事が出来るのではないか?意味は無いが十分勝ちだろう。」って、やっぱり意味が無さそうなので止めた。広島市内に近づくと郊外店渋滞に巻き込まれ、すり抜け走行で回避する。何とか日が暮れるまでに家に辿りつき、ホッとしたのと旅が終わったという虚脱感に見舞われる。バイクから荷物を降ろして、とりあえず風呂に入りビール飲んで一息つく・・・と携帯が鳴り出した。「何しよるんね、はよ出雲にきんさい!(ガチャ)」誰からの電話だったかは内緒にしておこう。
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